こんな幸福なことはない2
「相田さんには勝てましたか」
温かい手が正己の腰を押し込む。圧迫感に息が漏れる。相田さんは正己の勤める会社のそこそこ偉い人で、走ることが趣味だ。近場でマラソン大会が行われるというので、正己は誘われてから毎年参加している。
「全然。練習はしていたんですけれど、やっぱり追いつけませんでした」
「そうでしたか。タイムはどのくらいでしたか」
行きつけの整体院は夜遅くまでやっていて、正己はいつもこの人に施術してもらっている。会社のこと、休日の過ごし方をよく話したり聞いたりして、最近は相田さんの運動能力のすごさについて話していた。それ以前は学生時代の友達がその妻に内緒で高価な腕時計を買った話とか、整体院のスタッフの一人が子ども向けのサッカー教室を開いた話とかをした。たまたま見かけてから気になっていた男性を犯した話はしていない。
自分の人生は九九パーセント、思い通りに進んでいる。残りの一パーセントは、幸運の差し入れでできていると正己は考えていた。神かなにか、ともかく正己が広げる手、全てが思い通りになる世界にそっとギフトを置いてくれる存在がいる。
正己は世界中の誰にでも好人物にうつるし、うつった姿に沿うように行動することができた。それも「使い勝手が」良い人ではなく、親しみ深くて、安心をもたらし、尊敬と愛情をそそぎたくなるような。
ただし、正己はしばしばある衝動に呑み込まれる。自身も完全に言いあらわすことができない、緊張、不安、酩酊と動悸、一目惚れにも似ている「なにか」が正己を塗り潰してしまう。その衝動の前に理性はまったくの役立たずだ。そのいじらしいものをちょっとつついてやりたい。愛撫の代わりにつねってやりたい。そういった感情を何百倍も増幅したなにかが正己の腕を、脚を、頭を痺れさせ、うっとりするような心地のなかでそれらの甘い感情を手加減なく注ぎ込んでしまう。そして向けられた相手はすさまじい苦痛のなかで息絶えてしまうのだ。とおるもそのうちの一人になるだろう。
あの夜。とおるの家の近くである男を遊び終えた夜。
黒く空いた穴と、空けられた痛みのままの表情で止まった顔を見て正己は興味を失った。これを運んで、予定していた場所に埋めなければいけないということ(もちろん誰にも見られたり気づかれないように)だけを残して、残りの雑念は払った。払ったにも関わらず、すぐに動けなかったのはなんでだろう。正己はふりかえる。おそらく人の気配を感じていて、考えるよりも先に動かないように指令が足先に渡っていたのだと思う。これがもっとも納得のいく答えには違いなかった。しかし、正己はこう結論づけた。あれは運命だったと。自分ととおるが会うのにもっともふさわしいタイミングを、神が授けてくれたのだったと。
あの日結んだ運命のリボンを、正己は再びたぐり寄せようとしていた。
*
とおるは泣いていた。始めは鼻水をすする音しかたてなかったけれど、誰も反応してくれないので、声を上げた。うーっとか、わああ、と叫ぶものの、やっぱり誰もとおるのことを慰めようとはしなかった。泣きやみどころが分からず、なおもうめいていると、どこからか黒い影がとおるを囲み始めた。影はとおるに覆いかぶさり、驚いたとおるがもがいても、びくともしなかった。何をされるのか分かっていた。やめてくれ。もうあんなことはされたくない――。
それがスマートフォンのアラームの音だと気づくのにすこし時間がかかった。ピピピ……と聞き慣れた、それでいてあまりいい気持ちのしない音を止める。一気に起き上がるとあのときの傷の痛みがうわっと出てくるかもしれないので、そろそろと体を起こした。昨日の夜に調べた仕事場所と、そこに向かう電車の時刻を確認すると、家を出るまで三十分あった。派遣会社の指示通り黒いズボンを履き、身支度を済ませる。百円で買ったチョコスティックパンを一袋食べると、段々目が覚めてきた。
また夢に出てきたのか。とおるは傷口に意識を向けた。死体らしきものと、男。それを見てしまったばかりに、俺は……。食べたばかりのパンが気持ち悪く感じられて、とおるはあわてて考えるのをやめた。
はみがきを済ませて表に出ると、快晴だった。晴れた空は居心地が悪かった。お前なんかが歩いていていいのか、と常に問いかけられている気持ちになる。だからとおるは、人々がひざしを浴びて心地よさに目を閉じたり、やわらかい風にスカートをなびかせるのを横目に、うつむいてすれ違った。
電車は混んでいた。ここにいる全員がなにかしらの目的をもって乗っている。とおるもそのうちの一人だ。とおるはしばし圧倒される。無言で運ばれていく大量の人たち。降りるべき駅できちんと降りて、誰にも迷惑をかけずに過ごすんだろう。そんなまっとうな人たちと一緒に、でかい鉄のかたまりに入っている。とおるは扉近くに座る女性を見つめていた。履いているスカートが赤色だったからだ。マックのポテトの箱みたいな色だと思った。あんまり見ていたので、女性がうっすらととおるを見返していることに気づくのが遅れた。他人に見据えられるとたちまち身体がこわばるとおるは、心のうちで見んなよ、と文句を言う。自分が先に見ていたことは棚に上げた。あんな最底辺みたいなやつになりたくないとか、なんで生きているんだとか、そういう目で見ないでくれ。とおるは、知らないうちに人々の視線に悪意を見つけようとしていた。ありもしない悪意に向けて、とおるはひねくれた言葉を投げつづけていた。
紙袋に入ったティッシュはまだ二段積み重なっていた。そのうえ同じ紙袋がまだ三つもある。でも、まだ大丈夫だ。昼が過ぎ、夕方になれば帰宅する人たちが電車からぞろぞろと降りてくる。きっとそのときに配り切れるだろう。ティッシュにはチラシが入っていて、駅に近いお店のキャンペーンが印字されている。とおるの仕事はこのチラシ入りティッシュを配ることだ。一日じゅう立ちっぱなしだし、差し出した手が避けられるのは、とおる自身が避けられているようで悲しい。店名のロゴが入ったジャケットを脱ぎ、同じくロゴの入った紙袋を持っていなければそこらへんを歩く人と変わらないのに、それらを身につけるだけでがらりと態度が変わるのが驚きだった。一度、ティッシュを受け取ってくれたかと思えば、中のチラシだけを丁寧に抜き取って道端に放る人がいたり、チラシに書いてある店にはまるで関係のないようなお年寄りがティッシュをねだったり、さらに「もう一個ちょうだいよ」と言われてしまうと、とおるは黙って差し出すしかない。それでも、工場で働く日が続いたあとのこの仕事は、人の呼吸で煮詰まった室内から出られただけでもいくぶん好きなものだった。
とおるは通行人をながめた。女子高生、子供と母親、電動車椅子に乗った老人。たまに自分と同年代くらいの女がきびきびと歩いていると、それを目で追った。きっと人に誇れる仕事で、恋人がいて。ベージュのパンツにぴったり沿った尻がリズム良く交差点の向こうに消えていく。
スーツを着た男がティッシュを受け取ろうと手を出したとき、とおるは手をひっこめようとした。考えてやったことではなかった。そのことにとおる自身が気付く前に男がティッシュをかっさらっていく。とおるはあの日から、スーツの男をみるのが怖かった。あのとき反撃できる余地はなかった。それでも、俺が格闘技か何かを習っていたら、はさみか何か手元にあったら。やられたことを思い出すより、とおるがひらめくような技を繰り出したり、はさみをふりかざしたりして撃退する想像をする方が多かった。そんなこと、できたはずはないのに。
とおるの目の前をカートを引いた老女が横切った。かと思ったら、カートの車輪をかちゃかちゃいわせて、戻ってきた。
「ああ、それくださいな」
はーいどうぞーとティッシュを渡す。老女は受け取ると、慎重に(というより機敏に動けないので、ゆっくりやるしかないのかもしれない)カートにしまいこんだ。
「ありがとう、ごくろうさまねぇ」
老女は笑うと、ふたたびかちゃかちゃ鳴らしてカートをひいていった。カートの柄は赤い花模様で、とおるにはそれがかわいらしく映った。
もっとも日が高い時間が過ぎると、あとはゆっくり、あるときから急に暗くなっていく。店の事務室を出ると、あたりは夜を迎えようとしていた。暗いほうが好きなとおるは、すこし気分が明るくなる。街灯に照らされたベンチに座る老人が飲んでいるレモン酎ハイを見て、自分もそれが飲みたくなった。
コンビニで買った酒を呑みながら歩くと、世界がいくぶん優しそうに見える。帰りの電車に乗ると、とおるが持っている酒と同じ缶が転がっていて、俺もここに転がして帰りたい、と思った。ポイ捨てをした人物と一緒に飲んだ気分になって、とおるは楽しい気持ちになった。
ふと白いものがちらちらと動いていて、とおるは反射的にみーこ、と声をかけそうになった。みーこ達はどうしているだろう。缶詰を落としてしまったから、それを拾って食べてくれるといいんだけれど。あのあととおるが廃工場に戻っても、あのふわふわした白い生き物たちはいなかった。
やばそうな場所だもんな、あそこは。あのスーツの男が意識にのぼってくるのを必死で抑えこんだ。どこかもっと安全な場所に移り住んでたらいいな。足取りがゆれる。ゆれているのが分かる。もっとゆれて、ぐにゃぐにゃにさせたいと思った。頭にのぼるものを、ぐにゃぐにゃの中に沈めたい。熱心に目で追っていた白いものはゴミ袋だった。
底の擦れたリュックの外側のポケットを探り、鍵を取り出した。いつだったか、買って仕舞ったままにしてあるグレープフルーツの酎ハイが冷蔵庫にあるかもしれない。飲んでいた缶はまだ一口、二口分残っていた。このまま廊下に捨ててやろうかと思った。怒られるだろうが、かまうものか。本当にそうする気になりかけて、とおるはあわてて部屋に入った。
その足は何かを蹴り飛ばしていた。一つの靴を履きつぶすとおるの玄関に、靴は一足も置いていないはずだった。思いがけず蹴ったその重さ。それが男性の革靴ということには気付けなかった。
(あれ……?)
玄関扉のすぐ横のスイッチには、消灯を示す赤いランプが灯っていた。酎ハイの缶を持ったままの、スイッチを押し込むための手が止まる。まさか。そのとき暗闇から伸びた手が、動けなくなったとおるの代わりをつとめる。不快な明るい光が、スーツの男を照らした。
「やあ、おかえり」
そのまま優しくとおるの手元にある缶を抜き取っていく。そんな記憶はないのに、まるで親しい友人を家に招いておいて、今の今まで待たせていたように聞こえていた。叫ぶべきだと思った。とおるの声帯はその機能を一時的に失っていた。逃げるべきだった。とおるの足は床に固定されてしまっていた。空想の中で何度も握ったはさみはどこにもない。格闘技なんてひとつも知らない。かろうじて息をする以外に、とおるの身体はうごくことをやめてしまった。とおるの頭はでたらめな筆致で黒く塗りつぶされていった。
「それにしても君の部屋は人を迎える用意が何もないんだね。ティーバッグくらいあると思ったんだけど」
折りたたみ机の上には、とおるがいつも使っているコカコーラのロゴ入りグラスが置いてあった。そこには黒い液体が三分の一残っていた。男が勝手に冷蔵庫から出してのんだのだと、とおるは意味もなく理解した。
男のふるまいにはあいかわらずどこにも違和感がない。とおるが固まっているあいだ、男は自分の家のようにさっと扉の鍵を閉めた。そのまま、自分がさっきまでのんでいたように、とおるののみ残した酒を一口含み、顔をしかめる。
「酔うためだけの酒だね。すごい味がする」
そのままべっと舌を出してみせる。絶望的なことに、とおるは笑いそうになった。
ゆるくほどかれた身体の緊張は、しかしとおるになんの行動も許さなかった。危機的状況からふいに抜け出すことのできた身体は、瞬時に逃げ出したり、危機に立ち向かう力が湧くものだ。しかし、とおるの身体にはまるで危機が去ったあとのように脱力感だけを残っていた。
そんな役立たずのとおるの身体の前に、男はあらためて立った。座って、と言われたから、とおるはそのとおりにした。
「正座のほうがやりやすいよ」
やりやすい? とおるは回らない頭で男を見上げた。顔を見る前に、男がズボンのベルトを外すうごきが目についた。あれ、これって……。
とおるの髪が持ち上げられる。それはとおるを痛めつけたいというよりは、うまくそれが入るように角度を調整しているようにうごきに容赦がない。熱を持ち始めたそれがとおるの唇に触れた。
「ひっ」
とおるが男と再会して、初めて発した音だった。徐々に身体に力が戻るとともに、おかしさに気づく。俺はなんで素直に座ってるんだろう。とおるはそれが口に入り切る前に、腰を浮かしかけた。そのまま口のものを吐き出して逃げなかったのは、男が瞼のふちに親指をめり込ませたからだ。
「口は嫌? それならこっちはどう?」
「こっち」でいまされかけたことと、「口ですること」が結びつくまでにすこし時間がかかった。目をどうする気だ? 男の指が目の縁をなぞって、トントンと優しく叩く。ここに、あれを……。男が冗談を言っている訳ではないと、とおるに染み付いた記憶と身体が判断していた。あと少し指をすべらせたら、かんたんにおぞましいことに使うための穴に変えてしまうだろう。とおるは男に会って二言目、懇願の言葉を口にした。そうするしかなかった。
「わ、分かった、するから。目は、やめてくれよ……」
「そう? じゃあ続けるよ」
柔らかかった肉の塊がしだいに芯を持ち始める。それに合わせて顎が痛くなってくる。一日外にいたせいでひからびた口の端がひりひりする。そして生臭い。AVで見た女の子は、もっとうまそうにしてなかったっけ。でも、こんなのがうまいはずない。俺にもあんなふうにしろってか。とおるは知らずのうちに、男を睨みつけていた。それは目の前にあるそれを見たくなかったというのもあるし、男の顔、というより反応――気に障るようなことをして、目をえぐられないか――を見たいためでもあった。それが苦しさによって睨みつけてしまっているように見えたのだが、男はその視線に自分でも分からないときめきを覚えた。とおるの口をさらに圧迫させてしまう程度に。
「ん、ふぐっ」
とおるの口はとうに限界なのに、その限界をさらに広げようとする。圧迫感で涙を流すとおるをいたわることなく、男は要求した。口をもっと開けて。歯を当てないように気をつけて。耳のふちをなぞられ、とおるは思わず身をふるわせた。指の熱がふちに残っている。残っているのに、男は更にくぼみに指を滑り込ませた。
「ふ、ぅう、う……」
うめき声に苦しさ以外の色が混ざり始めたのを、男は敏感に感じ取っていた。髪の毛をただ掴んでうまくはまるように動かすのに疲れたし、手持ち無沙汰になった手が勝手にやったことだった。しばらく耳をもてあそび、また頭を固定するように抑える。いくら同じ男でどこが気持ちよくてどこがそうでないかを知っているとはいえ、無理やりこじ開けた咥内だ。同じ初めてでも、女の子のほうがまだ上手いと思う。締め付けもない、緊張で乾きはじめた穴。それでも興奮するのは、とおるが睨みつけていて、それでいて自分が出すまで口を開いておくことしかできない、無力で臆病でかわいそうでたまらない生き物だからだ。咳き込みそうになった喉がぐっとしまる。あ、いけるかも。男はとおるの前髪の束を掴み上げた。目元に滲む涙を見とめて、熱いものが込み上げてくるのを感じた。
「……! ……っ! げほっ、うぇえ……」
とおるの口から透明なものと白いものがこぼれていた。似合うなぁ。男はいくぶん落ち着いた心地で、とおるをその黒い目でじっと観察した。手のひらにうまく吐き出そうと、ねばつくものを舌で押し出そうとしている。男はその様子に抱きしめたくなったが、精液がついたら嫌なので、代わりに頭を撫でることにした。
「なんっ、な、ですか……?」
「よくできたねって思って。あ、洗ってきていいよ。もう帰るし」
ぼさぼさになった頭を整えるようにして撫でたあと、男は言葉通りに帰っていった。
「……は?」
言いながら、とおるは立ち上がり流しに向かう。そして何度も口をゆすいだ。うがい薬を使いたかったが置いていないので、ハンドソープを含んだ。手も、爪の間まで洗った。それを二回繰り返した。鍵を閉めて、おそるおそる離れた。
怖かった。なにも抵抗できなかった。撫でられた。褒められもした。とおるは無意識に飲みかけの缶を手に取った。男が口を付けた酒であることを、口に運ぶまでそうと気づかず、唇に触れてからあわてて全部流しに捨てた。頭はさっきからずっとぞわぞわとしていた。髪の毛に残る愛撫を振り落としたかった。
とおるは自分で自分の髪に触れた。そろそろと髪の束に指を差し込んだ。空気が入り込み、すうっとする。誰かに撫でられるなんて、いつぶりだろう。
温かい手が正己の腰を押し込む。圧迫感に息が漏れる。相田さんは正己の勤める会社のそこそこ偉い人で、走ることが趣味だ。近場でマラソン大会が行われるというので、正己は誘われてから毎年参加している。
「全然。練習はしていたんですけれど、やっぱり追いつけませんでした」
「そうでしたか。タイムはどのくらいでしたか」
行きつけの整体院は夜遅くまでやっていて、正己はいつもこの人に施術してもらっている。会社のこと、休日の過ごし方をよく話したり聞いたりして、最近は相田さんの運動能力のすごさについて話していた。それ以前は学生時代の友達がその妻に内緒で高価な腕時計を買った話とか、整体院のスタッフの一人が子ども向けのサッカー教室を開いた話とかをした。たまたま見かけてから気になっていた男性を犯した話はしていない。
自分の人生は九九パーセント、思い通りに進んでいる。残りの一パーセントは、幸運の差し入れでできていると正己は考えていた。神かなにか、ともかく正己が広げる手、全てが思い通りになる世界にそっとギフトを置いてくれる存在がいる。
正己は世界中の誰にでも好人物にうつるし、うつった姿に沿うように行動することができた。それも「使い勝手が」良い人ではなく、親しみ深くて、安心をもたらし、尊敬と愛情をそそぎたくなるような。
ただし、正己はしばしばある衝動に呑み込まれる。自身も完全に言いあらわすことができない、緊張、不安、酩酊と動悸、一目惚れにも似ている「なにか」が正己を塗り潰してしまう。その衝動の前に理性はまったくの役立たずだ。そのいじらしいものをちょっとつついてやりたい。愛撫の代わりにつねってやりたい。そういった感情を何百倍も増幅したなにかが正己の腕を、脚を、頭を痺れさせ、うっとりするような心地のなかでそれらの甘い感情を手加減なく注ぎ込んでしまう。そして向けられた相手はすさまじい苦痛のなかで息絶えてしまうのだ。とおるもそのうちの一人になるだろう。
あの夜。とおるの家の近くである男を遊び終えた夜。
黒く空いた穴と、空けられた痛みのままの表情で止まった顔を見て正己は興味を失った。これを運んで、予定していた場所に埋めなければいけないということ(もちろん誰にも見られたり気づかれないように)だけを残して、残りの雑念は払った。払ったにも関わらず、すぐに動けなかったのはなんでだろう。正己はふりかえる。おそらく人の気配を感じていて、考えるよりも先に動かないように指令が足先に渡っていたのだと思う。これがもっとも納得のいく答えには違いなかった。しかし、正己はこう結論づけた。あれは運命だったと。自分ととおるが会うのにもっともふさわしいタイミングを、神が授けてくれたのだったと。
あの日結んだ運命のリボンを、正己は再びたぐり寄せようとしていた。
*
とおるは泣いていた。始めは鼻水をすする音しかたてなかったけれど、誰も反応してくれないので、声を上げた。うーっとか、わああ、と叫ぶものの、やっぱり誰もとおるのことを慰めようとはしなかった。泣きやみどころが分からず、なおもうめいていると、どこからか黒い影がとおるを囲み始めた。影はとおるに覆いかぶさり、驚いたとおるがもがいても、びくともしなかった。何をされるのか分かっていた。やめてくれ。もうあんなことはされたくない――。
それがスマートフォンのアラームの音だと気づくのにすこし時間がかかった。ピピピ……と聞き慣れた、それでいてあまりいい気持ちのしない音を止める。一気に起き上がるとあのときの傷の痛みがうわっと出てくるかもしれないので、そろそろと体を起こした。昨日の夜に調べた仕事場所と、そこに向かう電車の時刻を確認すると、家を出るまで三十分あった。派遣会社の指示通り黒いズボンを履き、身支度を済ませる。百円で買ったチョコスティックパンを一袋食べると、段々目が覚めてきた。
また夢に出てきたのか。とおるは傷口に意識を向けた。死体らしきものと、男。それを見てしまったばかりに、俺は……。食べたばかりのパンが気持ち悪く感じられて、とおるはあわてて考えるのをやめた。
はみがきを済ませて表に出ると、快晴だった。晴れた空は居心地が悪かった。お前なんかが歩いていていいのか、と常に問いかけられている気持ちになる。だからとおるは、人々がひざしを浴びて心地よさに目を閉じたり、やわらかい風にスカートをなびかせるのを横目に、うつむいてすれ違った。
電車は混んでいた。ここにいる全員がなにかしらの目的をもって乗っている。とおるもそのうちの一人だ。とおるはしばし圧倒される。無言で運ばれていく大量の人たち。降りるべき駅できちんと降りて、誰にも迷惑をかけずに過ごすんだろう。そんなまっとうな人たちと一緒に、でかい鉄のかたまりに入っている。とおるは扉近くに座る女性を見つめていた。履いているスカートが赤色だったからだ。マックのポテトの箱みたいな色だと思った。あんまり見ていたので、女性がうっすらととおるを見返していることに気づくのが遅れた。他人に見据えられるとたちまち身体がこわばるとおるは、心のうちで見んなよ、と文句を言う。自分が先に見ていたことは棚に上げた。あんな最底辺みたいなやつになりたくないとか、なんで生きているんだとか、そういう目で見ないでくれ。とおるは、知らないうちに人々の視線に悪意を見つけようとしていた。ありもしない悪意に向けて、とおるはひねくれた言葉を投げつづけていた。
紙袋に入ったティッシュはまだ二段積み重なっていた。そのうえ同じ紙袋がまだ三つもある。でも、まだ大丈夫だ。昼が過ぎ、夕方になれば帰宅する人たちが電車からぞろぞろと降りてくる。きっとそのときに配り切れるだろう。ティッシュにはチラシが入っていて、駅に近いお店のキャンペーンが印字されている。とおるの仕事はこのチラシ入りティッシュを配ることだ。一日じゅう立ちっぱなしだし、差し出した手が避けられるのは、とおる自身が避けられているようで悲しい。店名のロゴが入ったジャケットを脱ぎ、同じくロゴの入った紙袋を持っていなければそこらへんを歩く人と変わらないのに、それらを身につけるだけでがらりと態度が変わるのが驚きだった。一度、ティッシュを受け取ってくれたかと思えば、中のチラシだけを丁寧に抜き取って道端に放る人がいたり、チラシに書いてある店にはまるで関係のないようなお年寄りがティッシュをねだったり、さらに「もう一個ちょうだいよ」と言われてしまうと、とおるは黙って差し出すしかない。それでも、工場で働く日が続いたあとのこの仕事は、人の呼吸で煮詰まった室内から出られただけでもいくぶん好きなものだった。
とおるは通行人をながめた。女子高生、子供と母親、電動車椅子に乗った老人。たまに自分と同年代くらいの女がきびきびと歩いていると、それを目で追った。きっと人に誇れる仕事で、恋人がいて。ベージュのパンツにぴったり沿った尻がリズム良く交差点の向こうに消えていく。
スーツを着た男がティッシュを受け取ろうと手を出したとき、とおるは手をひっこめようとした。考えてやったことではなかった。そのことにとおる自身が気付く前に男がティッシュをかっさらっていく。とおるはあの日から、スーツの男をみるのが怖かった。あのとき反撃できる余地はなかった。それでも、俺が格闘技か何かを習っていたら、はさみか何か手元にあったら。やられたことを思い出すより、とおるがひらめくような技を繰り出したり、はさみをふりかざしたりして撃退する想像をする方が多かった。そんなこと、できたはずはないのに。
とおるの目の前をカートを引いた老女が横切った。かと思ったら、カートの車輪をかちゃかちゃいわせて、戻ってきた。
「ああ、それくださいな」
はーいどうぞーとティッシュを渡す。老女は受け取ると、慎重に(というより機敏に動けないので、ゆっくりやるしかないのかもしれない)カートにしまいこんだ。
「ありがとう、ごくろうさまねぇ」
老女は笑うと、ふたたびかちゃかちゃ鳴らしてカートをひいていった。カートの柄は赤い花模様で、とおるにはそれがかわいらしく映った。
もっとも日が高い時間が過ぎると、あとはゆっくり、あるときから急に暗くなっていく。店の事務室を出ると、あたりは夜を迎えようとしていた。暗いほうが好きなとおるは、すこし気分が明るくなる。街灯に照らされたベンチに座る老人が飲んでいるレモン酎ハイを見て、自分もそれが飲みたくなった。
コンビニで買った酒を呑みながら歩くと、世界がいくぶん優しそうに見える。帰りの電車に乗ると、とおるが持っている酒と同じ缶が転がっていて、俺もここに転がして帰りたい、と思った。ポイ捨てをした人物と一緒に飲んだ気分になって、とおるは楽しい気持ちになった。
ふと白いものがちらちらと動いていて、とおるは反射的にみーこ、と声をかけそうになった。みーこ達はどうしているだろう。缶詰を落としてしまったから、それを拾って食べてくれるといいんだけれど。あのあととおるが廃工場に戻っても、あのふわふわした白い生き物たちはいなかった。
やばそうな場所だもんな、あそこは。あのスーツの男が意識にのぼってくるのを必死で抑えこんだ。どこかもっと安全な場所に移り住んでたらいいな。足取りがゆれる。ゆれているのが分かる。もっとゆれて、ぐにゃぐにゃにさせたいと思った。頭にのぼるものを、ぐにゃぐにゃの中に沈めたい。熱心に目で追っていた白いものはゴミ袋だった。
底の擦れたリュックの外側のポケットを探り、鍵を取り出した。いつだったか、買って仕舞ったままにしてあるグレープフルーツの酎ハイが冷蔵庫にあるかもしれない。飲んでいた缶はまだ一口、二口分残っていた。このまま廊下に捨ててやろうかと思った。怒られるだろうが、かまうものか。本当にそうする気になりかけて、とおるはあわてて部屋に入った。
その足は何かを蹴り飛ばしていた。一つの靴を履きつぶすとおるの玄関に、靴は一足も置いていないはずだった。思いがけず蹴ったその重さ。それが男性の革靴ということには気付けなかった。
(あれ……?)
玄関扉のすぐ横のスイッチには、消灯を示す赤いランプが灯っていた。酎ハイの缶を持ったままの、スイッチを押し込むための手が止まる。まさか。そのとき暗闇から伸びた手が、動けなくなったとおるの代わりをつとめる。不快な明るい光が、スーツの男を照らした。
「やあ、おかえり」
そのまま優しくとおるの手元にある缶を抜き取っていく。そんな記憶はないのに、まるで親しい友人を家に招いておいて、今の今まで待たせていたように聞こえていた。叫ぶべきだと思った。とおるの声帯はその機能を一時的に失っていた。逃げるべきだった。とおるの足は床に固定されてしまっていた。空想の中で何度も握ったはさみはどこにもない。格闘技なんてひとつも知らない。かろうじて息をする以外に、とおるの身体はうごくことをやめてしまった。とおるの頭はでたらめな筆致で黒く塗りつぶされていった。
「それにしても君の部屋は人を迎える用意が何もないんだね。ティーバッグくらいあると思ったんだけど」
折りたたみ机の上には、とおるがいつも使っているコカコーラのロゴ入りグラスが置いてあった。そこには黒い液体が三分の一残っていた。男が勝手に冷蔵庫から出してのんだのだと、とおるは意味もなく理解した。
男のふるまいにはあいかわらずどこにも違和感がない。とおるが固まっているあいだ、男は自分の家のようにさっと扉の鍵を閉めた。そのまま、自分がさっきまでのんでいたように、とおるののみ残した酒を一口含み、顔をしかめる。
「酔うためだけの酒だね。すごい味がする」
そのままべっと舌を出してみせる。絶望的なことに、とおるは笑いそうになった。
ゆるくほどかれた身体の緊張は、しかしとおるになんの行動も許さなかった。危機的状況からふいに抜け出すことのできた身体は、瞬時に逃げ出したり、危機に立ち向かう力が湧くものだ。しかし、とおるの身体にはまるで危機が去ったあとのように脱力感だけを残っていた。
そんな役立たずのとおるの身体の前に、男はあらためて立った。座って、と言われたから、とおるはそのとおりにした。
「正座のほうがやりやすいよ」
やりやすい? とおるは回らない頭で男を見上げた。顔を見る前に、男がズボンのベルトを外すうごきが目についた。あれ、これって……。
とおるの髪が持ち上げられる。それはとおるを痛めつけたいというよりは、うまくそれが入るように角度を調整しているようにうごきに容赦がない。熱を持ち始めたそれがとおるの唇に触れた。
「ひっ」
とおるが男と再会して、初めて発した音だった。徐々に身体に力が戻るとともに、おかしさに気づく。俺はなんで素直に座ってるんだろう。とおるはそれが口に入り切る前に、腰を浮かしかけた。そのまま口のものを吐き出して逃げなかったのは、男が瞼のふちに親指をめり込ませたからだ。
「口は嫌? それならこっちはどう?」
「こっち」でいまされかけたことと、「口ですること」が結びつくまでにすこし時間がかかった。目をどうする気だ? 男の指が目の縁をなぞって、トントンと優しく叩く。ここに、あれを……。男が冗談を言っている訳ではないと、とおるに染み付いた記憶と身体が判断していた。あと少し指をすべらせたら、かんたんにおぞましいことに使うための穴に変えてしまうだろう。とおるは男に会って二言目、懇願の言葉を口にした。そうするしかなかった。
「わ、分かった、するから。目は、やめてくれよ……」
「そう? じゃあ続けるよ」
柔らかかった肉の塊がしだいに芯を持ち始める。それに合わせて顎が痛くなってくる。一日外にいたせいでひからびた口の端がひりひりする。そして生臭い。AVで見た女の子は、もっとうまそうにしてなかったっけ。でも、こんなのがうまいはずない。俺にもあんなふうにしろってか。とおるは知らずのうちに、男を睨みつけていた。それは目の前にあるそれを見たくなかったというのもあるし、男の顔、というより反応――気に障るようなことをして、目をえぐられないか――を見たいためでもあった。それが苦しさによって睨みつけてしまっているように見えたのだが、男はその視線に自分でも分からないときめきを覚えた。とおるの口をさらに圧迫させてしまう程度に。
「ん、ふぐっ」
とおるの口はとうに限界なのに、その限界をさらに広げようとする。圧迫感で涙を流すとおるをいたわることなく、男は要求した。口をもっと開けて。歯を当てないように気をつけて。耳のふちをなぞられ、とおるは思わず身をふるわせた。指の熱がふちに残っている。残っているのに、男は更にくぼみに指を滑り込ませた。
「ふ、ぅう、う……」
うめき声に苦しさ以外の色が混ざり始めたのを、男は敏感に感じ取っていた。髪の毛をただ掴んでうまくはまるように動かすのに疲れたし、手持ち無沙汰になった手が勝手にやったことだった。しばらく耳をもてあそび、また頭を固定するように抑える。いくら同じ男でどこが気持ちよくてどこがそうでないかを知っているとはいえ、無理やりこじ開けた咥内だ。同じ初めてでも、女の子のほうがまだ上手いと思う。締め付けもない、緊張で乾きはじめた穴。それでも興奮するのは、とおるが睨みつけていて、それでいて自分が出すまで口を開いておくことしかできない、無力で臆病でかわいそうでたまらない生き物だからだ。咳き込みそうになった喉がぐっとしまる。あ、いけるかも。男はとおるの前髪の束を掴み上げた。目元に滲む涙を見とめて、熱いものが込み上げてくるのを感じた。
「……! ……っ! げほっ、うぇえ……」
とおるの口から透明なものと白いものがこぼれていた。似合うなぁ。男はいくぶん落ち着いた心地で、とおるをその黒い目でじっと観察した。手のひらにうまく吐き出そうと、ねばつくものを舌で押し出そうとしている。男はその様子に抱きしめたくなったが、精液がついたら嫌なので、代わりに頭を撫でることにした。
「なんっ、な、ですか……?」
「よくできたねって思って。あ、洗ってきていいよ。もう帰るし」
ぼさぼさになった頭を整えるようにして撫でたあと、男は言葉通りに帰っていった。
「……は?」
言いながら、とおるは立ち上がり流しに向かう。そして何度も口をゆすいだ。うがい薬を使いたかったが置いていないので、ハンドソープを含んだ。手も、爪の間まで洗った。それを二回繰り返した。鍵を閉めて、おそるおそる離れた。
怖かった。なにも抵抗できなかった。撫でられた。褒められもした。とおるは無意識に飲みかけの缶を手に取った。男が口を付けた酒であることを、口に運ぶまでそうと気づかず、唇に触れてからあわてて全部流しに捨てた。頭はさっきからずっとぞわぞわとしていた。髪の毛に残る愛撫を振り落としたかった。
とおるは自分で自分の髪に触れた。そろそろと髪の束に指を差し込んだ。空気が入り込み、すうっとする。誰かに撫でられるなんて、いつぶりだろう。